多言語のさんぽ道

現在、主に仏・中・英を勉強。日々の外国語学習に加えて、読書ログや日記を書いています。

【読書ログ】宮沢賢治 虔十公園林 

この本は再読。初めて読んだのは20年近く前でしょうか。

正直昔は、宮沢賢治って正直そんなになじみのある文体とは思えませんでした。というより敬遠してました。方言もよくわからないし、よくわからない擬音語とかあるし、ファンタジーすぎるし。とか思っていました。もちろんいくつかくらいは読みましたが、なんとなく好きになれなかった。しかし当時でもなぜかこの虔十公園林は心にじんわり残るものがありました。

今回、短編アンソロジーに入っていたので懐かしく読み返しました。

当時の心のじんわり感の正体が自分なりに言語化できたのと自分の成長を感じられたので記録。

結論から言えば、苦手だった要素が全部反転して、賢治の良さがわかるようになっていた。人間を多面的立体的に見れるようになっていたため人間理解が深まった。

賢治ファンの方には申し訳ない表現もあるけれど、ご了承を。

◯なんか全体的に雰囲気が暗くて田舎っぽい重さがある。(私は田舎は大好きです)→民話っぽい情緒にあふれていて、方言が人々の息遣いを感じさせる

◯擬音語が独特でよくわからない→独特の擬音語が素朴さを感じさせる

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この話の主人公は、皆からどこか足りない、と言われている虔十(けんじゅう)という若者。風が吹いたなど自然の営みを見るだけで笑いがこぼれ出てしまうような純粋な男です。賢治の言葉でいうところの、でくのぼう。

彼がたった一つ望んだことは家の裏に林を作ること。優しい家族は彼を応援します。土壌が硬いため木なんて育たないと近所から反対されるものの、懸命に世話をし、背丈は低いながらも成長した木々達を大切に見守る虔十。林を切れと言われても頑として譲らなかった虔十。綺麗に植えられた林は子ども達の格好の遊び場になります。

時は流れ、近代化の流れで畑が工場や家に変わっていく中、虔十の小さな林だけが当時の雰囲気を遺すものとなりました。それを見た人々は当時を懐かしがります。ここに林を作った人は賢いと。昔、虔十を笑っていた当時の子供たちは彼の尊さに気づきます。

林が残った理由は、彼の両親が彼の唯一の形見だからと必死に手放さなかった結果でした。虔十は流行病で早世してしまうのですが、林そのものが、彼自身の純な自然への愛情・朴訥さがそこに残されているかのようなユートピアのように私には感じられました。

純で素朴な虔十と優しく健気な家族、美しい緑が走馬灯のように思い出されます。本当に残しておきたいものとは何か、人生を走っていく中で忘れてきてしまったものは何か、考えさせられました。

その素朴さを感じるのに有効な手段となっているのが賢治の擬音語、童話の語りかけ、土地の方言です。

最後の一文

そして林は虔十のいたときの通り雨が降ってはすきとおる冷たいしずくをみじかい草にポタリポタリとおとしお日さまがかがやいては新しいきれいな空気をさわやかにはき出すのでした。

加えて、上記のような、読点が少なくひらがなを多用する文体(昔は苦手でした)までもが、表現の柔らかさ、情景の美しさになっているのだと感じた読書でした。

なんだか長くなってしまいました。

賢治の再読に、ぜひいかがでしょうか。