多言語のさんぽ道

現在、主に仏・中・英を勉強。日々の外国語学習に加えて、読書ログや日記を書いています。

生きてきた道

生きる

って定義の範囲が広すぎる言葉だけど、それだけになんでも言えちゃうし、含められちゃう。

人の生き方は歳を重ねるごとに変わっていくもの。

私も、10代20代今とかなり変わってきた感じです。

10代は自分自身の若さや未熟さを嫌悪していました。しかも周りの環境も自分で自由に変えることが難しく、周りも自分も敵、みたいな四面楚歌以上の状況でした。自分の扱い方もよくわかっていなかった。もっとやり方があったはずなのに、と今になれば思うのだけれど、当時はなすすべなく沼の底で静かにしているほかなかった。暗い時代でした。

20代は自分を分かろうとするためのひたすらの修行期間。それまで置かれていた環境を客観視せざるを得なくなって、改善点を発見したり、自分の世界を広げるために無理矢理にでも知らない世界に行動範囲を広げてみたり。人に迷惑もかけたし、辛いことも多かったけれど、その経験がなかったらきっと後悔していたと思います。知らない世界を知ってみたかった。知ってよかったと思います。

30代に入って、周りの環境が自分に合ったものに変わっていったところで、やっと心の平安が保てるようになりました。時期、めぐり合わせと言うんでしょうか。初めて心が楽になったと自覚する時間を持てるようになりました。

道が開かれないときは、とことん開かないものですね。20代と30代の落差をもってそのことに気づきました。

時を経てきて思うのは、どんどん生きることが楽になっているということ。

辛いこと、重荷が取れてきたというのもあるし、荷物を自分から抱え込まなくなってきた、ということもあります。

生きれば生きるほど、人生は楽になっていくんじゃないか。これがここ数年の実感です。

人生の先輩方からすると、異論を唱える方もいらっしゃると思います。でも個人個人の意見だから、私が良ければそれでオーケー!だと思います。

その人の苦労なんかその人にしかわからないもんね。

それらを踏まえて、これからはもっと自由に、もっと気楽に、優しく生きていきたい。

誰かの力になれるような、誰かと誰かを繋げられるような人になれたら素敵だなと思います。

欲を言えば、自分がいなくなってもなにか誰かに残せるものを積み重ねていきたい。

なんか漠としてしまったけれど、今の所感です。

 

【読書ログ】にほんごの話

谷川俊太郎和合亮一の2人の詩人が語る、日本語と詩をめぐる対談集。

何回かの対談を本としてまとめているもので

・子どもへの日本語教育

・日本語の音とオノマトペ

・現代の詩について

みたいな感じで様々な話題が挙げられている。

後半の対談は散漫になっている感が否めないところはあったが、タイプの違う詩人2人の意見の違いが面白い。

以下、目を止めた箇所いくつか。

谷川 僕が朗読をしても、悪口の詩を読むと一番ウケる(笑)

和合 でも、教科書にはそういうユーモアというか際限のない過剰さを感じさせる言葉は確かにありませんね。

谷川 教科書は基本的に言語を人間関係の中にあるものだと捉えていませんよね。知識として捉えているだけで。それから、教科書に載っている日本語は規範的なものでなければいけないという考え方がありますよね。規範的な日本語ばかりで教科書ができているから、実際に子どもたちが現場で使っている日本語のリアリティから離れてしまう。子どもは小学一年生になるまでに、相当な言語体験をしているし、それなりに言語能力を獲得しているわけです。……

谷川氏は以前共同編集で『にほんご』を編まれていて、国語教科書について思うところのある方。指摘が興味深い。

谷川 ……漢字を日常的に使っている以上、漢文脈はけっして無視できないと思います。

和合 漢文とか無意識のうちに身体に入るような言葉へのアプローチが本当に薄いですよね。そのせいかわかりませんが、文学作品にしても、梶井基次郎の『檸檬』や安部公房の『棒』のような、ちょっと不条理っぽいものを、私はこれは面白いだろうと教えても、反応が薄いんです。で、何なの?みたいな感じになる。一見、無意味に思える言葉を全員で共有するという意欲がそもそも乏しいんですね。しかし、すべての言葉が意味に還元されるような体験ばかりをしていると、古典の言葉の本当の意味での不明さみたいなものを一生感じることなく終わってしまうのではないかと思います。深層言語の世界を教育の場に待ってくることは難しいと思うんですけど、その中から物の見方や考え方を学んでいく姿勢が必要なんじゃないかと。

実際に教師として働いている、和合氏の意見が貴重だと感じた。

和合 ……先ほど、「オノマトペは意味を伴わない」とおっしゃいましたが、その「無意味」というのはオノマトペのみならず、日本語の詩の可能性にとっても非常に重大なものと感じます。

谷川 そうですね。実際には、人間が言語を発明する以前にはまったくの無意味だったわけだよね。言語が発生したからこそ、世界を意味付けることができたわけ。いまわれわれは、あらゆる事柄に意味がなければいけないと思っているけど、実際の世界のあり方としてはノンセンスであることのほうが基本的なあり方だと思うんです。(中略)存在の意味よりも先に、手触りー存在そのものを感じさせてくれるのがオノマトペなんです。……

和合 谷川さんは作詞もたくさん手がけていらっしゃいますが、詩と歌のあいだにあるものは一体何なのでしょうか?

谷川 朗読、だと思っています。活字ではなくて声を持つと、詩はほとんど歌の「素」(もと)のようになってきます。日本語の調べのようなものが自ずと出てきてね。(中略)詩と歌のあいだは朗読ーもっと言えば「人間の感覚」ですね。活字で終わるならそれは詩でしかない。でもいったん体を通って声になると、歌の方に近づいていく、そういう感じがします。

朗読をしてみたい私にとって、興味深い箇所。

最後に、クスッと笑えた箇所

(谷川氏の詩集が中国語になった際に)

和合 自分の言葉が中国語になって、どのような印象を持たれましたか?

谷川 あのひらがなは全部どこにいっちゃったんだろう、って(笑)

和合 ないですよね(笑)

谷川 漢字の中に押し込めたのか、ひらがなだけまとめてどっかの池に捨てちゃったのか(笑)、みたいな印象でしたね。

今回は感想というより、ただのメモになってしまった。

備忘録として。

 

 

【ロシア語】言葉遊びで学ぶ表現の基礎

4月から始まった今期のNHKラジオ講座の初級編。

ロシア語を本格的に始めるのは少し先になる予定なのですが、とりあえずラジオの聞き流しだけはしています。

前田和泉先生の早口言葉やアネクドート(ロシアの風刺的な要素を含んだ短い小話)から切り込んだ新しいタイプの講座で、すでにかなりお気に入りです。

何がいいって、前田先生とパートナーのマーシャさんの掛け合いが毎回クスッと笑える、ゆるゆる系だからです。語学勉強講座というより、聴いて楽しむのがメインの普通の芸能人のラジオみたい。でもちゃんと学べる。

文法事項もちゃんと入ってきて、習うより慣れよでたまにスパルタなところも刺激的でいいです。しばらくはテキストは購入しないので耳学。それでも十分に楽しめます。

テンションの上がる半年間になりそうです!

【読書ログ】宮沢賢治 虔十公園林 

この本は再読。初めて読んだのは20年近く前でしょうか。

正直昔は、宮沢賢治って正直そんなになじみのある文体とは思えませんでした。というより敬遠してました。方言もよくわからないし、よくわからない擬音語とかあるし、ファンタジーすぎるし。とか思っていました。もちろんいくつかくらいは読みましたが、なんとなく好きになれなかった。しかし当時でもなぜかこの虔十公園林は心にじんわり残るものがありました。

今回、短編アンソロジーに入っていたので懐かしく読み返しました。

当時の心のじんわり感の正体が自分なりに言語化できたのと自分の成長を感じられたので記録。

結論から言えば、苦手だった要素が全部反転して、賢治の良さがわかるようになっていた。人間を多面的立体的に見れるようになっていたため人間理解が深まった。

賢治ファンの方には申し訳ない表現もあるけれど、ご了承を。

◯なんか全体的に雰囲気が暗くて田舎っぽい重さがある。(私は田舎は大好きです)→民話っぽい情緒にあふれていて、方言が人々の息遣いを感じさせる

◯擬音語が独特でよくわからない→独特の擬音語が素朴さを感じさせる

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この話の主人公は、皆からどこか足りない、と言われている虔十(けんじゅう)という若者。風が吹いたなど自然の営みを見るだけで笑いがこぼれ出てしまうような純粋な男です。賢治の言葉でいうところの、でくのぼう。

彼がたった一つ望んだことは家の裏に林を作ること。優しい家族は彼を応援します。土壌が硬いため木なんて育たないと近所から反対されるものの、懸命に世話をし、背丈は低いながらも成長した木々達を大切に見守る虔十。林を切れと言われても頑として譲らなかった虔十。綺麗に植えられた林は子ども達の格好の遊び場になります。

時は流れ、近代化の流れで畑が工場や家に変わっていく中、虔十の小さな林だけが当時の雰囲気を遺すものとなりました。それを見た人々は当時を懐かしがります。ここに林を作った人は賢いと。昔、虔十を笑っていた当時の子供たちは彼の尊さに気づきます。

林が残った理由は、彼の両親が彼の唯一の形見だからと必死に手放さなかった結果でした。虔十は流行病で早世してしまうのですが、林そのものが、彼自身の純な自然への愛情・朴訥さがそこに残されているかのようなユートピアのように私には感じられました。

純で素朴な虔十と優しく健気な家族、美しい緑が走馬灯のように思い出されます。本当に残しておきたいものとは何か、人生を走っていく中で忘れてきてしまったものは何か、考えさせられました。

その素朴さを感じるのに有効な手段となっているのが賢治の擬音語、童話の語りかけ、土地の方言です。

最後の一文

そして林は虔十のいたときの通り雨が降ってはすきとおる冷たいしずくをみじかい草にポタリポタリとおとしお日さまがかがやいては新しいきれいな空気をさわやかにはき出すのでした。

加えて、上記のような、読点が少なくひらがなを多用する文体(昔は苦手でした)までもが、表現の柔らかさ、情景の美しさになっているのだと感じた読書でした。

なんだか長くなってしまいました。

賢治の再読に、ぜひいかがでしょうか。

 

歩きすぎみたい。

ここ1週間近くは雨ばかり。今日は風は強かったけれど晴れていたので、散歩に出かけました。

郵便局や近くのショッピングセンターへ。私は1日5000〜1万歩歩くのが普通なので、今日もいつも通りにスタスタと妊娠前と同じペースで歩き、無事散歩を終えました。

うちに帰り、食事の支度をしていると、お腹が張ってきました。その1時間後、またその30分後も。

心配になり、かかりつけの産院に電話すると「何かされましたか?」とのこと。「変わったことはしていないけれど1万歩歩きました」と伝えると、助産師さんに「ほどほどにしてくださいね。歩くのはいいことですけども、お腹が大きくなってくると知らないうちに今までできていたことでも負担になることがあるので、注意しましょう。歩いている時は大丈夫でも、後から張ってくることもありますよ。この後はゆっくりしてくださいね」との返答をもらいました。※私は現在23週。お腹が大きくなる速度が早くなってきました。

関東に比べてこちらは車社会なので、歩く人はほとんどいません。そのため、珍しがられたようです。お互いちょっと笑いを堪えての会話。(歩きすぎじゃない?みたいな)

明日からは少し歩くペースを調節して、歩数も控えめにしようと思った次第です。

聴力の改善?!

突然ですが、私は左耳がよく聞こえません。全く聞こえないというわけではないのですが、電話を受けるのは厳しい、くらいの聴力です。

高校生の頃から聴力検査に引っかかり出しました。大学病院で診察を受けたところ、理由は不明、中を開いてみないと原因はよくわからないし、開いたところで状況が改善するかはわからないと言われました。結局そのまま放置です。

それからかなりの時間が経ちました。普段は右耳メインで聞いているので、左耳がどんな感じに働いているかは気にした方がなかったのです。

今日、何の思いつきか、珍しくラジオを左耳だけで聞いてみました。右耳を指で押さえながら。

まあ、聞こえないこと!!がっかりしました。

目をつぶってウトウトしながら何分か聞いていました。清水のようにうっすらと音が入ってきていることだけは感じられました。

しかし、徐々に美しい清水の音が少しずつ大きくなっていくような気がしたのです。びっくりして音に耳を澄ますと、聞き始めよりだいぶ低い音も耳に入ってくるのを感じました。

もしかして、これって慣れなのかな??

こんなことってある?!半信半疑です。

結局15分番組のうち、最後の5分ちょっとくらいはそんな感じで楽しめたんじゃないかな…。左耳からの刺激は右耳からの刺激とは違うものが感じられて面白いです。

訓練次第で少しは良くなるなら、毎日訓練してみるのもいいな、と思ったのでした。

(これはあくまで私個人の感想で、普段使ってない器官が刺激に敏感になることで起きた、ただの一時的な感じ方の違いかもしれません。悪しからず…)

いったん立ち止まる

日々の雑務、やるべきこと・やりたいことに追われていると、自分がどこかに行ってしまった感覚になります。

そんなとき、高速回転する自分の思考を止めて立ち止まってみる。深呼吸する。

すると少し時間が止まる。

◯今やってることはそんなに急いでやることかな?

◯もう少し長期的な視点でゆったり考えることはできないかな?

◯これ、やめても支障ないかな?

と落ち着いてみると、少し自分がここに戻ってくる気がする。

そういう時間が定期的に自分に必要だなと思った今日です。